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命の価値

 銃の乱射事件だの、日々のニュースを見ていると、良い行いをしてるとか関係なく、死ぬときは死ぬし、日ごろの行いに応じて死に方も選ばれる事はないんだなぁと思います。
 もし、良い行いをたくさんすればするほど、死期は遅くなり、死も穏やかに訪れるなら、世界に悪人はいなくなるかも知れないけど、そういう風に世界は出来ていないよね。平和にただ毎日、草を食むだけの草食動物も、食物連鎖の渦からは逃げられないし、突然訪れる、襲われる恐怖と痛みの中で死んで行くのだから。命あるもののためには神様というのはいないし、地獄も天国もないんだろうなと、考えるしかないのでした。

 自分の力で、自分の意思で死にかかわる事で選べるものがあるとしたらそれは、死んだ後に惜しまれるか惜しまれないかだと思うのです。どんなに突然の死でも、それが悲惨な死であっても、日々の努力と人への労わりの気持ちで過ごしていれば、「惜しい人を亡くした」と言ってもらえるかと。それぐらいしか、自分が選べる事はないのではないのではないかととも思うのです…。
 もし翌日、自分が突然死んだら、「惜しい人を」、「大事な人を」、「貴重な人を」と思って貰えるかどうか。それを考えて、自分の行いを日々引き締めるのでした(=ω=)
 最大の難点は、自分の生涯の評価を、自分自身が知る事ができないという点でしょうか…。でも残された家族がその言葉で癒されてくれるかもしれない。
 偶然の中で悲惨な死を迎えてしまったら、まるで運命に「日ごろの行いが悪いからだ」と言われているような、そんな気もして、残された人はより辛くなってしまうのではないかと。でも「なぜあの人が…」と言われれば、その例えようもない見えない何かに責められてる気持ちはなくなると思うのです。

 親より長く生きて、穏やかに死んで行くのが自分にとっても周囲にとっても、一番いいのでしょうけど、それは個人の努力では選べないから、せめてその死が”惜しまれる”ものであるように、自分を育てて行きたいと思います。
 命の社会的な価値は、自分の努力で高くなる。同じ散る桜なら、より高い位置から散ろう。その花びらが地面に落ちるまでの間、世間に名を残せれば、なお良し。という事で…。

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